山中順子

やまなか じゅんこ

多様な文化、情報が混ざり合う港町ヨコハマで生まれ育ち、異国の文化と触れ、他国の人々と自然に交流するハマの自由さが身体に沁み込んでいるからだろうか。山中順子は10代後半から旅をし続けた。湘南に始まり、グアム、沖縄、ハワイ、与論島、香港、オーストラリア、シアトル、ニューヨーク。一番の長旅はマイアミからルート10号を走り、ニュー・オーリンズ、メキシコ、赤に染まる雪のグランド・キャニオン、ラスベガスを回ってロス・アンジェルス、サンタモニカまで2カ月近い車の旅。ほかにも、シンガポール、フィリピン、ドミニカ共和国、カリブ海の島々など、さまざまな土地を巡った。20代後半はタイの寺院や宗教心に触れ、アジアの生命感を感じた。

山中写真

「その頃は、写真家になろうなどとは一瞬たりとも思わず、写真は趣味の域にも達していませんでした。でも、写真は撮らずとも、世界各地で感度を広め、本能のシャッターで一瞬を切り取り、すべてを記憶の倉庫にしまってずっと熟成していたんだと思います。」

奄美との出会い、響き合い

その後、知人の薦めでカメラを手にし、写真の仕事を始めることになる。特に特定のカメラマンに師事したことはなく、当然アシスタントの経験もない。自身の感性は「写真の域」にとどまらず、映像、絵、音楽、詞、香り、味に響いていて表現の形にこだわっていないと思いつつも、写真家を名乗り、写真を通じてエンターティエメントの仕事をしていた。そうした中で奄美と出会い、これが自身の世界観が大きく変わるターニングポイントとなる。

願立ての浜~海の彼方に願いを立てる

「奄美に出会う前から、響いた場所には出向いていましたが、『こころの帰る場所』が見つからずにいました。奄美が心の眼(故郷、母)となって、死生観や生命(いのち)を見ている、そのことに響き、拘わりをもっている、いのちを戴き、死を迎えることが本当に美しいことだ、と感じさせられました。」


「奄美」を追い求め続けるきっかけになったのは、2000年の夏、浜の潮風に含まれている波の音との出会い。シュナリ(潮鳴り)と呼ばれるこの音は、奄美の人々にとっては生まれてから亡くなるまでずっと傍にある記憶の音だと感じた。

「横浜で生まれ育ったハマっ子の私にも、いつも潮の風が寄り添っていますから。奄美でなにか共有できるものを直感したんだと思います。光、風、潮を浴びながら、砂浜の感触を足の裏ですくい取るような共鳴でした。」

写真家として、「生命」をテーマに奄美群島の百歳以上の長寿者や新生児、奄美の精神世界、聖地、祭り、ユタ(シャーマン)、暮らしなどを撮り続けた。それは身体に響く場所、人、シマに潜む言葉に触れる旅でもあった。

奄美の文化

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